浄土真宗本願寺派 正心寺




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お話「一語一縁」

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ひとつのことば ひとつの話に 出あい ふと気づかされたり 考えたり… ひとつのことば ひとつの話に 出あい それが仏法にふれるご縁となっていければ…

最近の記事

三つの教え

【まこと】
人の世の 生まれ 消え 動いていくことを 
変わらぬものと信じている とらわれたこころの私
ここにあるもの それを一つ また一つ 
失っていくことを 教えられるよろこび
みほとけさまは 
いつまでも変わらぬ まことこそ
「南無阿弥陀仏」と教えてくださいます

        【ひかり】
         ひかりが強ければ強いほど 私のかげは 濃さをましてくる
         ここにひかるもの 朝も昼も夜も いつどこで何をしていても
         かならず 私が照らされている ひかり
         みほとけさまは 
         いつまでも変わらぬ ひかりこそ
         「南無阿弥陀仏」と教えてくださいます

【いのち】
生まれ 死んでいく私の 生きとし生ける姿
すべてのいのちは 限りあるもの
ここに生きるもの それは 大きな願いによって
生かされている 限りない いのち
みほとけさまは 
いつまでも 変わらぬ いのちこそ
「南無阿弥陀仏」と教えてくださいます

固定リンク | 2010年01月01日【8】

柔らかきは 強きなり

水には柔軟性があります。四角の容器に注げば四角の形になるし、丸い容器に注げば丸い形にもなります。
また一方で水には強さもあります。たとえば川の水、上流の方の石は大きくてゴツゴツしており、下流に行けばいくほど石は小さく丸い形になっていきます。川の水は長い年月をかけてあんなに大きな石の角をとって丸く変えていく力があるのです。

他にも、松の木などは硬いものですが、それゆえに台風の時など強風にあおられ倒れたり折れたりします。ところが、しなやかな笹などはあまり折れたりすることがありません。 まさしく柔軟性をもつものが、硬直なものより強いということを表しています。

『イソップ物語』の中に、私の好きな「北風と太陽」という話があります。旅人の着ているマントを脱がせることが出来るのはどちらかと、北風と太陽が競争をします。北風は強い風でもってマントを脱がそうと試みますが、かえって旅人はしっかりとつかまえて放しません。一方 太陽は柔らかく暖かい日差しを浴びさせ、とうとう旅人はマントを脱いだというお話、 ここでもそうですね。

現代は特に強さが求められます。強くなければ生きられないなどといいますが、強さには必ずもろさがともないます。したがいまして、私たちが自然(じねん)に生きていく上では、やはり【柔らかなる心】が大切でありましょう。

阿弥陀さまの願いの中に「触光柔軟(そっこうにゅうなん)」という願いがあります。
仏さまの智慧をいただいたならば、身も心も柔らかになるということ、
       み教えにふれて、真の強さを秘めた柔らかき人間でありたいものです。

固定リンク | 2009年11月05日【7】

心の鏡

仏法は心の鏡 うつしてみよう 私の姿を!

私たちは『自分のことは自分がよく分かっている』等と口にすることがありますが、ホントのところどうなのでしょう? 案外と分かっているようで分かっていないのが 私たちなのではないでしょうか。

それを証拠にこんなこと思い当たりませんか。他人の悪いことはよく見えるが、自分の悪いところには なかなか気づけない、気づいても認めたくない なんてこと。

他人のうわさ話は延々と続けられますが、ほめ言葉となるとほんのわずかで終わってしまいます。それほどに他人のことが気になるのがお互いですね。それも たいていは悪いことが気にかかり、よいことでも悪く変えてしまうという いらぬ能力を持っています。

そのくせ自分自身のことになれば、ちょっとの批難に対してでも懸命に弁解につとめます。こういったことをよくよく考えていくと、人間とは自分のことが何もわからない存在なのかもしれません。

さて、親鸞聖人はご自身のことを「愚禿(ぐとく)」と名のられており、『愚禿が心は 内は愚にして外は賢なり』といわれています。外見はいかに賢そうにみせているが、中身は愚かそのものだとおっしゃるのです。そのように言われるのは、仏法に出遇い仏法を聞いたからでありましょう。
 
様々な世間事に振り回され頭を悩ませ、腹を立ていかり、ニッチモサッチモいかないことが時折ありますが、お念仏の声を聞いていたら、いつの間にか心が静まり恥ずかしい気持ちと、そしてちょっぴり嬉しさと有難さを感じる私です。
『仏法は心の鏡 うつしてみよう 私の姿を!』 
み教えをいただいて、お互いに自分の本当の姿に気づかせていただきましょう。

固定リンク | 2009年09月01日【3】

乗り越えて生きる道

 時が過ぎゆくのは まことに早いもので、前住職がお浄土に参らせていただき もう2年半です。今月は書棚で見つけた前住職の法話を記載させていただきます。
 
 
 よく『この人生に生きるだけの意味や理由があるのか誰か教えてほしい』という言葉に接することがありますが、この発想は転換されるべきであります。
 人生に意味があるのなら生きてみよう、もし意味がないのならやめておこうという発想ではどういうことになるか・・・・ 人生に初めから意味があるかないかを問うのではなく、二度と繰り返しえない人生を意味づけて生きる道を見出すことが肝要なのです。 このことに気づかせていただくことが大事! 念仏のみ教えは、悩み深いこの人生に真の意味を与えてくださいます。

 人生は晴れの日もあり、雨の日もあり、暖かい日もあり、寒い日もあります。すなわち順縁もあれば逆縁もあります。もし、人生を外から眺めて値打ちをつけるならば、雨の日よりも晴れの日が、寒い日よりも暖かい日が、そして逆縁より順縁の方が良いに決まっています。しかし人生の意味ということになりますと、晴れた日には晴れた日の、雨の日には雨の日のよさ、ありがたさがうなずかれます。また、病気には病気の味わいがあり、別れには別れの悲しみを転じた深い人生のありがたさがうなずけることであります。

 「悪を転じて徳を成す」とはまことに深いいわれと心があり、この転じかえ成す【転成】のはたらきは知識からは生まれません。それは仏さまの智慧のはたらきです。まことの人生は念仏によって立て直されてゆくもので、どのような逆縁をも苦しみ悩みをも必ず乗り越えられてゆく道となるのです。

 『苦しみは乗り越えるためにこそある』という言葉があります。念仏はまさしく乗り越える道を歩ませていただく真のはたらきであります。
 念仏とともに歩みゆく道は泣き寝入りの人生ではなく、乗り越えて生きる無碍の一道なのであります。

                                   釋 義人

固定リンク | 2009年07月01日【6】

親は無条件に愛をそそぐ

 当寺には毎年のように愛らしいツバメたちが訪れてくれ、その姿に和まされたり癒されたりします。
今年も顔を見せてくれ、喜ばしいことに10日ぐらい前にカワイイ6羽のヒナがかえりました。見ておりますと親鳥は我が子のために朝6時頃より暗くなる夜7時頃まで一日中えさを探し求め、あちらこちらへ飛び交います。ある統計によると1日300回ほど行ったり来たり巣から飛び立つそうです。またヘビやカラスなどの外敵は来ないか危険はないかなど常に周囲を確認し、遠くからでもいつも見守っています。昼夜問わずそのいのちを守り育てる親の姿に感動せずにはいられません。

 さて、お念仏慶ぶ先人たちは阿弥陀さまのことを「親さま、親さま」と呼んでまいりました。親という漢字は「木の上に立って見ているもの」という構成です。これは「いつも目を離さないもの、たとえ離れていても心はいつも子どもの方を向いているもの」ということでもあります。
子どもはすぐに親から目を離しますが、親は子どもから目を離すことはありません。いや離せない、心配でほっとけないのです。

 実は阿弥陀さまという仏さまもそういう方です。いつも私を案じ、私を見つめ、いつも私に寄り添ってくださいます。『どんなことがあろうとも、そばにいるよ、嬉しいときも悲しい時も、病める時も健やかなる時も、いついかなる時も一緒ですよ』と 私の存在を丸ごと受けとめ、慈しみ育ててくださいます。
そういうことからして、阿弥陀さまを「真実の親」と呼ばせていただくのでありましょう。

 ツバメの姿を見ながら、心安らぐ初夏のひとときです。

固定リンク | 2009年06月13日【5】

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