浄土真宗本願寺派 正心寺




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お話「一語一縁」

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ひとつのことば ひとつの話に 出あい ふと気づかされたり 考えたり… ひとつのことば ひとつの話に 出あい それが仏法にふれるご縁となっていければ…

最近の記事

深く生きる

人生 長きがゆえに 尊からず
人生 深きがゆえに 尊し


世間一般的には人生が長いほうがより価値があるように言われたりしますが、いのちというものが単に抽象的に長さだけで考えられてはならないでしょう。真に人間のいのちならば、長さのみならず幅もあれば深さもあるはずです。

年齢を重ねれば、それだけ人生をよりよく見、経験するわけですから、それだけものわかりがいいはずなのに、反対に我が強くなり柔軟心に欠け、思い通りにならないと人生を嘆き、時には怒りなんてことが無きにしもあらず・・・・・
やはり人は、いのちを空しく長さだけに生きるのではなく、いのちを深さにおいて生きることが大切なのではないでしょうか。

仏法に出遇うということは、私が本当の私にであうことでもあります。人間であるありのままの私の相に、ときには人間であるがゆえの悲しさに 愚かさに 空しさに・・・・・

親鸞聖人は仏を仰ぎ、無量寿のいのちを限りなく深く生き抜かれたお方と言えましょう。
『ひそかにおもんみれば』という言葉から始まる【教行信証】には
『広大な仏の誓いは、生きがたく渡りがたい海を渡してくださる大きな船であると、何ものにもさえられず一切を照破する仏の光明は一切の煩悩、迷いの根本である無明の闇を照破する智慧の日光である』と述べられました。
仏法に出遇い、智慧の光明に照らされる私に出遇っていきながら、このかけがえのない人生を深く深く大事に生きていきたいものです。そのいのちの深みにおいて豊かに広がる人生があるのではないかと思います。

固定リンク | 2012年02月02日【14】

キティーちゃんと阿弥陀さま

キティーちゃんという白いネコのキャラクターをご存知でしょうか。1974年に日本で生まれたキャラクターで、赤いリボンがトレードマークです。本名は「キティー・ホワイト」といい、今では世界中で愛されていて国内外を問わず、ご当地キテーちゃんが大人気のようです。皆さんもきっとご覧になられたことがあるでしょう。
 さて、キティーちゃんにはあまり知られていない話があります。それはキティーちゃんのお顔にまつわる話です。キティーちゃんのお顔を見てみると口がありません。例外的にアニメの中のキティーちゃんはおしゃべりすると口が動くシーンがあるそうですが、それ以外には口がついていないのです。そして、これには理由がありました。

 ある日のことです。寺だよりの締め切りが迫っているのに内容が決まらず悶々としていた時、娘の持っているキティーちゃんのぬいぐるみと偶然目が合いました。すると、ぬいぐるみも私と一緒に悩んでいるように見えたのです。彼女はまるで私の気持ちをわかっているかのように切ない表情をしたのでした。
 その時、以前聞いた話を思い出しました。キティーちゃんには口がついていないので、見る人の気持ちによってその表情が変わります。その人が嬉しい時は一緒に喜んでいるように、悲しい時は一緒に悲しんでいるように見えるのだそうです。だからキティーちゃんを見ていると自分の心が投影されて「自分一人じゃないんだ」という気持ちになってくるというのです。これが幅広い世代から人気を得ているポイントの一つだと聞いたことがありました。

 私がさびしいときに、 よその人は 知らないの
 私がさびしいときに、 お友だちは 笑ふの
 私がさびしいときに、 お母さんは やさしいの
 私がさびしいときに、 佛さまは さびしいの

 これは金子みすゞさんの「さびしいとき」という詩です。何となくキティーちゃんの魅力と重なりませんか? キティーちゃんは私がさびしい気持ちで見つめると、さびしい表情をします。キティーちゃん以外にも人気のあるキャラクターはいますが、そのキャラクターたちは、きっと私が「さびしいとき」もニッコリ笑っていると思うのです。いつもニッコリと笑っているキャラクターは、とてもかわいらしいものですが、私が「さびしいとき」や「かなしいとき」も笑っています。キティーちゃんは、いつも私の気持ちをわかってくれるのです。
 
 そして、みすゞさんの詩にあるように阿弥陀さまもいつも私の気持ちがおわかりになるから私のことを放っておけないのです。
 世間には自分の調子がいい時だとニコニコしながら寄ってくる人がたくさんいます。でもうれしい時も悲しい時もさびしい時も、いつも同じ気持ちで寄り添ってくれる人は滅多にいません。しかも自分の人生を通していつでもどこでも一緒にいてくれる人は皆無です。親子・兄弟姉妹・おつれあいも難しいでしょう。
 しかし阿弥陀さまはつまるところ独りぼっちになる私のいのちを見捨てられないから、私と共に痛み苦しみ泣き笑いしてくださるのです。そして、その苦悩から解き放ち、いのちの輝きを与えずにはおれないとはたらいてくださいます。

 それだけではありません。私という人間はさびしい時つらい時には阿弥陀さまの存在を有難く思うのに、元気で楽しくなると阿弥陀さまのことなど忘れてしまいます。ですが、阿弥陀さまはそんな私の本性を見抜いておられます。調子がよかろうが悪かろうが、私の本性は欲得まみれです。その本性によって生み出されるさまざまな苦悩を抱えてしか生きていくことのできない私を見て、切なくて切なくて、あなたの力にならずにおれませんとはたらき続けておられるのでした。

キティーちゃんと阿弥陀さま。 全く共通点などないように見えますが、似ているところもありましたね。
 
         新潟市 妙光寺住職 井上慶永師 【大乗7月号掲載】

固定リンク | 2011年07月05日【13】

海は広いな 大きいな すべてを抱くその海は まるで母のよう

ある穏やかな昼下がり、錦江湾を眺めていると、ふと海の広大さと懐の深さに祖母を思い出す時がありました。

海というのは、すべての川の水を迎え入れます。
きれいな水は きれいなまま 泥水は泥水のまま、
どんな水でも同じように海に流れ込んでいきます。そして海に流れ込んだら、すべての川の水は等しく同じ海の水になります。

親鸞聖人は「海」という言葉を著述の中で非常に多く使われておりまして、主著『教行信証』には何と七十回以上も出てまいります。  
親鸞聖人の「海」のお味わいには大きく分けて二種類、
一つは本願海、大心海、功徳宝海など、海を阿弥陀さまのはたらきに譬えたもので、
もう一つは、生死の苦海、無明海など衆生の世界に譬えられたものです。

しかし、親鸞聖人のお味わいの上で最も大切なことは「海」転成という はたらきをもつものとして考えられたことです。 転成とは転じ変え成すという意味です。
『お正信偈』の一節に「如衆水入海一味」、すなわち「衆水、海に入りて一味となるがごとし」と。またご和讃にも

 尽十方無碍光の
 大悲大願の海水に
 煩悩の衆流 帰しぬれば
 智慧のうしほに一味なり
 


とあります。すべての川の水は異なった味ですが、海に流れ込むと潮の味に転成して
一味となっていく、それが海のはたらきであります。

それと同じように、思い煩い悩みの中に生きる煩悩の海を転じ変え成すものは、まさしく阿弥陀さまのご本願の大海であると親鸞聖人は讃えられたのでしょう。

そういえば「海」という漢字には「母」という字が含まれています。
すべてを受けとめてくれる懐の深さは まるで母のよう
すべてを迎え入れ、すべてを抱くその広大さは 親である阿弥陀さまのよう

穏やかな海を見ていたら、ふと やさしかった亡き祖母を思い出すと共に 阿弥陀さまのお心をお味わいさせていただきました。

固定リンク | 2011年02月02日【12】

ひとつの言葉で・・・

ひとつの言葉でケンカして
ひとつの言葉で仲直り
ひとつの言葉でおじぎして
ひとつの言葉で泣かされた
ひとつの言葉は それぞれに
ひとつの心をもっている


私たち人間は言葉という素晴らしい そして優れた文化をもっています。
心の中は目には見えませんが、言葉によって目には見えない心の中を表現できます。

さて、私達人間は舌刃(ぜっとう)という凶器を持っています。舌の刃と書くそのままに、まるで刃のごとく相手を傷つけ時にはグサッと切り裂く・・・ 何気なく発した言葉でも誰かのことを傷つける場合がありますね。

反面、誰かに温かく声をかけてもらったり 柔らかみのある言葉を聞いたりすると、何だかこちらも優しい気持ちになります。

言葉には力があります。 心があります。
ならばこそ、常に言葉の使い方には気をつけたいものですね。





固定リンク | 2010年09月02日【11】

こころの眼

 京都教区  圓照寺  岡本 豊伸 師

「この木なんの木 気になる木 名前も知らない木ですから…♪」
皆様 この歌を耳にされたことがあるかと思われます。そうです、これはTVで流れている日立のCMソングです。この樹は実は日本ではなく、アメリカ合衆国ハワイ州オアフ島にある「モアナルア・ガーデンパーク」にあります。名はモンキーポットといいまして、年に2回、5月と11月に花を咲かせます。ですがどんなことよりも一番の印象とは大きな樹であるということがいえると思います。高さは25M、幅は40M、幹の太さは何と7Mもあるそうです。「大地に根を伸ばし、大きな枝を広げ、色とりどりの花を咲かせて実を結ぶ」これが日立の樹に対するグループの思いだそうです。

この立派な樹、これは私達の人生にも相通ずるものがあるかと思うのです。自らの人生をすばらしい人生にする為に、社会では家族のために一生懸命になって働き、家族や友人の中では思いやりを持って接し、自分を大きな人間に成長させる為に日々努力しながら毎日を過ごします。そして時には成功の花を咲かせ、時には悲しみの花を散らします。このような経験を繰り返し繰り返しして、自分という幹を太く、確かなものにしていき、大きな樹、つまり大きな人間へと成長していこうとします。

そんな中、私達には つい見落としがちになる部分があります。人間はどうしても眼に映るものばかりを追いがちです。立派な樹、実はそこにはそれを支えるだけの立派な根があり、いつも(何も言わずに)それを支えてくれているという事実が存在するのです。私達、人間におきましてもまた然り、表面的な私だけに眼を向けると、そこにはただ単に私という存在しか感じることが出来ません。ですが見えない部分に眼を向けてみると、そこには今まで見えてこなかったことに気付けるようになってくる。
親があっての自分、またその親、そしてまた……。友の支え、口にするものすべての命。たとえば日本人はお米を主食としますが、お米の「米」の文字は「八十八」が変形して「米」という字になっています。これはお百姓さんが八十八回のお手間を掛けられて、お米が出来るということからだそうです。そのお百姓さんの一つ一つのご苦労、そしてまた、そのお百姓さんも食べていかねば生きていけません。ですのでお百姓さんが口にするものすべての命…。
このように考えていきますと、無数の命、無数のご縁に支えられながら私は生きている。生きているというよりもむしろ、生かされているといったほうが正しいのかもしれません。普段は自分の眼で見えるものばかりを追いがちでが、見えなかった部分をこころの眼を開いて見たときに、新たな自分のあり方がそこに見えてくる。自分がいかに自分以外の恵みをいただきながらしか生きていけないのか気付かされていくのです。

どうぞ皆様方もこころの眼をひらかれまして、自らに問いかけられてみてください。 私はそこにこそ「お陰さま」「ありがとう」という言葉が心から湧き出てくるのではないかと思います。
最後になりますが、これらのことは一見キレイ事かもしれません。これをキレイ事と聞き流していくのか、ワタクシ事であったと聴き、受け止めていくのか。これが仏法を聴く要となります。どうかワタクシ事と皆様の心に留まり、また皆様方の心に響くことを願います。 
                                     合掌

 (このコーナーへの原稿執筆ありがとうございました)

固定リンク | 2010年05月02日【10】

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