浄土真宗本願寺派 正心寺




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お話「一語一縁」

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ひとつのことば ひとつの話に 出あい ふと気づかされたり 考えたり… ひとつのことば ひとつの話に 出あい それが仏法にふれるご縁となっていければ…

最近の記事

ににふに

 仏教用語に而二不二(ににふに)という言葉があります。かなで読むと、可愛らしいですね。
「而二不二」とは、「而二」と「不二」の二つの言葉がくっついたもので、二つであって二つでない という意味です。なんだかとっても矛盾している言葉です。
「而二(にに)」とは、一つのものを二つの面から見ることで、「不二(ふに)」とは、二つの面があっても、その本質は「一つ」である、ということです。
一枚の紙を例にとって考えてみましょう。
「紙には表と裏がある。」というのが「而二」にあたります。そして、「表と裏がそろって初めて一枚の紙になる。」と言うのが「不二」にあたります。
つまり、紙には表と裏という二つの面があり、その両方があるからこそ紙が存在しているというわけです。このような、表と裏のような、切っても切れない関係が「而二不二」です。

 世の中には表ばかりのものや、裏ばかりのものはありません。また、表のないものには裏はなく、裏のないものには表はありません。裏は表があるから生まれ、表も裏があるからこそ生まれてきたのです。
 わたしたちは、気付かぬうちにいろんなものを別々に分(わ)けてみていきます。そしてその方が都合良いのです。でも大切な本質を見失ってしまいます。
いのちは等しく大切なものである事はみんな知っています。ところが、蚊が飛んできたら叩いてしまうし、きれいな蝶なら叩きません。知らず知らずのうちに、いのちを自分にとって都合が良いか悪いかで分けてしまっています。悲しいことに、それが私たちの姿です。而二(にに)不二(ふに)とはそんな矛盾を抱えずにはおれない私たちに、『ばらばらじゃないよ。みんないっしょだよ。』と語りかけてくれている言葉のような気がします。

 生死一如 生きるも死ぬもひとつごと。出会いは別れの始まりであり、別れはまた出会いの始まりである。別れは辛く悲しいけれど、その悲しみから学ぶ事が出来るのが人間のすばらしさではないでしょうか。
 
 ナモアミダブツは矛盾や悲しみに出会わなくてはならない私たちに、間違いなくまたお会いすることのできるいのちを生きているんだよ。終わってゆくいのちを生きているのでなく生まれてゆくいのちを生きているんだよと呼び続けてくださるはたらきです。ナモアミダブツと手をあわせ拝むところに亡き方との出会いがある。亡き方はほとけさまとなって拝む私たちの姿を よろこび ほめ たたえて いてくださいます。

安芸教区 紫花 大慈 師

(このコーナーへのご執筆ありがとうございました)

   

固定リンク | 2014年03月16日【19】

来いよ来いよの親の呼び声

映画【かぐや姫の物語】の中で私の好きなシーンがあります。

翁と媼のもとで瞬く間に大きく成長するかぐや姫。
あるとき家の庭の外から村人の子どもたちが、かぐや姫のことを『竹の子、たけのこ♪』と呼び囃し立てます。その声に対抗するかのようにが翁は『姫、ひめ!』と力強い声で呼び続けます。(地井武男さんの演技の声が素晴らしいです)
そうすると、いったん庭に出たかぐや姫が、おぼつかない足取りですが翁の方へ向かいます。なにしろ千鳥足なので、翁としては転びはしないだろうか、ここまでたどり着くことができるだろうか心配で心配でたまりません。
姫を案じながら必死に呼び続け、子どもが自分のもとへたどり着く前に、もう翁の方が姫に近寄っていき涙ながらに抱き上げるこのシーン。
姫のことを思う深い愛情と、案じ続ける翁(親代わり)の姿をあらわすいいシーンです。


親である阿弥陀さまも、子である私たち衆生のことを思ってやみません。
『ここに親がいるよ』『来いよ来いよ』と呼んでくださる。
呼んでなお、親の方からこちらへ来てくださる。
歩みのおぼつかない子のために、私のために、ここへ来てくださる。

「南無阿弥陀仏」と呼んでくださるのです。
「ナンマンダブツ」ときてくださるのです。

【かぐやひめの物語】の映画を見ながら、ふと親さまの心、私なりに味わわせていただくいいシーンでした。

固定リンク | 2014年01月30日【18】

手を合わす その姿

先日お通夜に参った時のこと。司会者の案内で葬儀場のホールに入場した瞬間、胸がじわ〜っと熱くなりました。といいいますのも、ご本尊の横においてある遺影の写真が合掌をしている姿だったからです。あらためて手を合わす姿は理屈抜きに何とも有難いなぁと思うことでした。

親鸞聖人が選ばれた七人の高僧方の一人、インドの龍樹菩薩は、この世の中で一番美しい人間の姿とは何かというと、「合掌の姿」であると述べられています。
合掌すると自然と心が穏やかになってきます。手を合わせると喧嘩もできません。争い、憎しみの心も少しずつ減っていくから不思議です。
食事のときも合掌します。私の犠牲になってくれる多くの「いのち」に対して、また食材を調達し食事を作ってくれる人に対して、合掌して感謝と敬いの心を表します。

 さて、保育園では仏参といいまして、日々子ども達とお参りをしますが、子ども達が歌う仏教讃歌の中に「手を合わせ」という歌があります。

手を合わせ
静かに  お目めを つむる時
うかんでくるよ  ののさまの
やさしい  やさしい  そのお顔

手を合わせ 
静かに  お耳を すます時
聞こえてくるよ  ののさまの
みんなを  はげます  そのお声

いい歌ですね!
インドでは右手は「仏の手」、左手は凡夫である「私たちの手」といわれ、手を合わすことにより、仏さまと私が一つになるといわれています。
手を合わすその姿が、手を合わすその心が、仏の心に近づいていくのではないでしょうか。
万人が手を合わせながら日々を生きることができたならば、穏やかで誠実な日常が展開されるかもしれません。

固定リンク | 2013年10月21日【17】

私の現在地はドコ

私は今 どこにいるの
どこに向かって歩んでいるの


東京に出張に行った時のこと、地下鉄の駅で地上の目的地に向かおうとしたら場所が分からない、あっち行ったりこっち行ったり迷ってしまい、アッこんな時には案内板があるではないかと駅の案内掲示板を見てみたらすぐに解決しました。なぜなら案内板には自分の立ち位置が分かりやすくきちんと示されていたからです。そういえば、どんな案内図にもそれを見る人の現在地が表示されています。
今では必需品となった車のナビゲーションシステムもそう、携帯電話にもナビのアプリが入っていますね。人工衛星を使ってディスプレイ画面の地図中に現在地を自動表示してくれます。現在地を確認できるからこそ目的地へ向かうことが出来るわけです。

人生を地図に例えてみると、地図は私たちが持っている知識にあたります。知識は豊富であるにこしたことはありませんが、どんなに詳しい地図を、優れた地図を持っていても、その地図の中に自分のいる場所が見いだせなかったら役に立ちません。それどころか、かえって迷うばかりです。
人生という地図の中で現在地を見いだす働き、それが仏さまの智慧です。私たちは人生においてつまずいたり転んだり、あちこち迷ったりします。そんな中で仏さまのみ教えを聞かせていただきますと、自分の立ち位置に、自分の本当の姿に気づかせていただきます。そして、私は今どこにいるのか、どこに向かって生きているのかということを、あらためて考えさせていただく機縁をいただきます。まさしく仏さまからいただく智慧の働きといえましょう。

皆さんも今一度 考えてみませんか? 人生という地図の中での自分の現在地を!

固定リンク | 2012年10月04日【16】

♪ なもあみだぶつを称えれば

五月の風が心地良く頬にふれる今日この頃ですが、この五月は親鸞聖人の誕生月で今年で839回目の誕生日を迎えます。
その【しんらんさま】の讃歌にこんな歌詞があります。

 
♪ そよ風 わたる 朝の窓
  働く 手のひら 合わせつつ
  南無阿弥陀仏 となえれば
  しんらんさまは にこやかに
  私の 隣に いらっしゃる ♪


私たちがお念仏を称えると、その一人ひとりの傍に親鸞さまが微笑んでおられるのだと。  何ともあたたかい!  一声のお念仏で、親鸞さまにお会いしているかと思うと、何だか私もというか、こちらこそ にこやかになります。 

いや・・・親鸞さまだけではない、ほとけさま(阿弥陀さま)にもあっています。
お念仏を称えるということは、真に阿弥陀さまにお遇いするということです。
 
  南無の言は帰命なり   帰命は本願招喚の勅命なり
  発願回向というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したもうの心なり  
                      【親鸞聖人 教行信証 行巻】

阿弥陀さまが声の仏さまとなって、この私を呼び覚まそうとする、
南無阿弥陀仏と称えると、それと同時にこの私の耳に南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
私のチカラで 私のはからいで称えていると思っている このお念仏も、実は阿弥陀さまの御はからい  阿弥陀さまの呼び声 阿弥陀さまのお慈悲の深さのあらわれでしょう。

甲斐和里子さんの詩集「草かご」に こんな歌があります。

  みほとけを よぶ わが声は
  みほとけの 我を よびます
  み声なりけり


呼び通しの阿弥陀さま、『あなたの親はここにいるよ、私にまかせてくれよ』と、気づかせよう知らしめようと働いてくださっている親さまの思いが私の元へ届いて、今度は私の口から『南無阿弥陀仏 ナモアミダブツ』お念仏が出てくださいます。甲斐さんは『わが声ながら 尊かりけり』ともおっしゃておられます。
衆生の行である「お念仏を称える」ということは、阿弥陀さまから賜った行であり、阿弥陀さまの願いのままに真に出遇っている姿でもありましょう。

 “称えて気づかされる み名のはたらき”

あらためて味わう阿弥陀さまのお慈悲の深さを、五月の風が教えてくれました。


固定リンク | 2012年05月15日【15】

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