浄土真宗本願寺派 正心寺




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お話「一語一縁」

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ひとつのことば ひとつの話に 出あい ふと気づかされたり 考えたり… ひとつのことば ひとつの話に 出あい それが仏法にふれるご縁となっていければ…

最近の記事

来いよ来いよの親の呼び声

映画【かぐや姫の物語】の中で私の好きなシーンがあります。

翁と媼のもとで瞬く間に大きく成長するかぐや姫。
あるとき家の庭の外から村人の子どもたちが、かぐや姫のことを『竹の子、たけのこ♪』と呼び囃し立てます。その声に対抗するかのようにが翁は『姫、ひめ!』と力強い声で呼び続けます。(地井武男さんの演技の声が素晴らしいです)
そうすると、いったん庭に出たかぐや姫が、おぼつかない足取りですが翁の方へ向かいます。なにしろ千鳥足なので、翁としては転びはしないだろうか、ここまでたどり着くことができるだろうか心配で心配でたまりません。
姫を案じながら必死に呼び続け、子どもが自分のもとへたどり着く前に、もう翁の方が姫に近寄っていき涙ながらに抱き上げるこのシーン。
姫のことを思う深い愛情と、案じ続ける翁(親代わり)の姿をあらわすいいシーンです。


親である阿弥陀さまも、子である私たち衆生のことを思ってやみません。
『ここに親がいるよ』『来いよ来いよ』と呼んでくださる。
呼んでなお、親の方からこちらへ来てくださる。
歩みのおぼつかない子のために、私のために、ここへ来てくださる。

「南無阿弥陀仏」と呼んでくださるのです。
「ナンマンダブツ」ときてくださるのです。

【かぐやひめの物語】の映画を見ながら、ふと親さまの心、私なりに味わわせていただくいいシーンでした。

固定リンク | 2014年01月30日【18】

手を合わす その姿

先日お通夜に参った時のこと。司会者の案内で葬儀場のホールに入場した瞬間、胸がじわ〜っと熱くなりました。といいいますのも、ご本尊の横においてある遺影の写真が合掌をしている姿だったからです。あらためて手を合わす姿は理屈抜きに何とも有難いなぁと思うことでした。

親鸞聖人が選ばれた七人の高僧方の一人、インドの龍樹菩薩は、この世の中で一番美しい人間の姿とは何かというと、「合掌の姿」であると述べられています。
合掌すると自然と心が穏やかになってきます。手を合わせると喧嘩もできません。争い、憎しみの心も少しずつ減っていくから不思議です。
食事のときも合掌します。私の犠牲になってくれる多くの「いのち」に対して、また食材を調達し食事を作ってくれる人に対して、合掌して感謝と敬いの心を表します。

 さて、保育園では仏参といいまして、日々子ども達とお参りをしますが、子ども達が歌う仏教讃歌の中に「手を合わせ」という歌があります。

手を合わせ
静かに  お目めを つむる時
うかんでくるよ  ののさまの
やさしい  やさしい  そのお顔

手を合わせ 
静かに  お耳を すます時
聞こえてくるよ  ののさまの
みんなを  はげます  そのお声

いい歌ですね!
インドでは右手は「仏の手」、左手は凡夫である「私たちの手」といわれ、手を合わすことにより、仏さまと私が一つになるといわれています。
手を合わすその姿が、手を合わすその心が、仏の心に近づいていくのではないでしょうか。
万人が手を合わせながら日々を生きることができたならば、穏やかで誠実な日常が展開されるかもしれません。

固定リンク | 2013年10月21日【17】

私の現在地はドコ

私は今 どこにいるの
どこに向かって歩んでいるの


東京に出張に行った時のこと、地下鉄の駅で地上の目的地に向かおうとしたら場所が分からない、あっち行ったりこっち行ったり迷ってしまい、アッこんな時には案内板があるではないかと駅の案内掲示板を見てみたらすぐに解決しました。なぜなら案内板には自分の立ち位置が分かりやすくきちんと示されていたからです。そういえば、どんな案内図にもそれを見る人の現在地が表示されています。
今では必需品となった車のナビゲーションシステムもそう、携帯電話にもナビのアプリが入っていますね。人工衛星を使ってディスプレイ画面の地図中に現在地を自動表示してくれます。現在地を確認できるからこそ目的地へ向かうことが出来るわけです。

人生を地図に例えてみると、地図は私たちが持っている知識にあたります。知識は豊富であるにこしたことはありませんが、どんなに詳しい地図を、優れた地図を持っていても、その地図の中に自分のいる場所が見いだせなかったら役に立ちません。それどころか、かえって迷うばかりです。
人生という地図の中で現在地を見いだす働き、それが仏さまの智慧です。私たちは人生においてつまずいたり転んだり、あちこち迷ったりします。そんな中で仏さまのみ教えを聞かせていただきますと、自分の立ち位置に、自分の本当の姿に気づかせていただきます。そして、私は今どこにいるのか、どこに向かって生きているのかということを、あらためて考えさせていただく機縁をいただきます。まさしく仏さまからいただく智慧の働きといえましょう。

皆さんも今一度 考えてみませんか? 人生という地図の中での自分の現在地を!

固定リンク | 2012年10月04日【16】

♪ なもあみだぶつを称えれば

五月の風が心地良く頬にふれる今日この頃ですが、この五月は親鸞聖人の誕生月で今年で839回目の誕生日を迎えます。
その【しんらんさま】の讃歌にこんな歌詞があります。

 
♪ そよ風 わたる 朝の窓
  働く 手のひら 合わせつつ
  南無阿弥陀仏 となえれば
  しんらんさまは にこやかに
  私の 隣に いらっしゃる ♪


私たちがお念仏を称えると、その一人ひとりの傍に親鸞さまが微笑んでおられるのだと。  何ともあたたかい!  一声のお念仏で、親鸞さまにお会いしているかと思うと、何だか私もというか、こちらこそ にこやかになります。 

いや・・・親鸞さまだけではない、ほとけさま(阿弥陀さま)にもあっています。
お念仏を称えるということは、真に阿弥陀さまにお遇いするということです。
 
  南無の言は帰命なり   帰命は本願招喚の勅命なり
  発願回向というは、如来すでに発願して衆生の行を回施したもうの心なり  
                      【親鸞聖人 教行信証 行巻】

阿弥陀さまが声の仏さまとなって、この私を呼び覚まそうとする、
南無阿弥陀仏と称えると、それと同時にこの私の耳に南無阿弥陀仏と聞こえてきます。
私のチカラで 私のはからいで称えていると思っている このお念仏も、実は阿弥陀さまの御はからい  阿弥陀さまの呼び声 阿弥陀さまのお慈悲の深さのあらわれでしょう。

甲斐和里子さんの詩集「草かご」に こんな歌があります。

  みほとけを よぶ わが声は
  みほとけの 我を よびます
  み声なりけり


呼び通しの阿弥陀さま、『あなたの親はここにいるよ、私にまかせてくれよ』と、気づかせよう知らしめようと働いてくださっている親さまの思いが私の元へ届いて、今度は私の口から『南無阿弥陀仏 ナモアミダブツ』お念仏が出てくださいます。甲斐さんは『わが声ながら 尊かりけり』ともおっしゃておられます。
衆生の行である「お念仏を称える」ということは、阿弥陀さまから賜った行であり、阿弥陀さまの願いのままに真に出遇っている姿でもありましょう。

 “称えて気づかされる み名のはたらき”

あらためて味わう阿弥陀さまのお慈悲の深さを、五月の風が教えてくれました。


固定リンク | 2012年05月15日【15】

深く生きる

人生 長きがゆえに 尊からず
人生 深きがゆえに 尊し


世間一般的には人生が長いほうがより価値があるように言われたりしますが、いのちというものが単に抽象的に長さだけで考えられてはならないでしょう。真に人間のいのちならば、長さのみならず幅もあれば深さもあるはずです。

年齢を重ねれば、それだけ人生をよりよく見、経験するわけですから、それだけものわかりがいいはずなのに、反対に我が強くなり柔軟心に欠け、思い通りにならないと人生を嘆き、時には怒りなんてことが無きにしもあらず・・・・・
やはり人は、いのちを空しく長さだけに生きるのではなく、いのちを深さにおいて生きることが大切なのではないでしょうか。

仏法に出遇うということは、私が本当の私にであうことでもあります。人間であるありのままの私の相に、ときには人間であるがゆえの悲しさに 愚かさに 空しさに・・・・・

親鸞聖人は仏を仰ぎ、無量寿のいのちを限りなく深く生き抜かれたお方と言えましょう。
『ひそかにおもんみれば』という言葉から始まる【教行信証】には
『広大な仏の誓いは、生きがたく渡りがたい海を渡してくださる大きな船であると、何ものにもさえられず一切を照破する仏の光明は一切の煩悩、迷いの根本である無明の闇を照破する智慧の日光である』と述べられました。
仏法に出遇い、智慧の光明に照らされる私に出遇っていきながら、このかけがえのない人生を深く深く大事に生きていきたいものです。そのいのちの深みにおいて豊かに広がる人生があるのではないかと思います。

固定リンク | 2012年02月02日【14】

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